第2章 5-7 ピアジェの心理学における子どもの言語と思考の問題

 第五節は,自己中心的言語と内言の発達について語る。ヴィゴツキーは,子どもの最初の言語は純粋に社会的なものであると考える。ヴィゴツキーにとって、自己中心的言語とは、外言から内言への過渡的形式である。この図式全体は、社会的言語から自己中心的言語へ,そして内言へと移行するもので,これを伝統的理論ならびにピアジェの図式に対峙させることができる。

 六節は,ピアジェの自己中心性理論の批判にあてられている。ヴィゴツキーは、精神分析および,ピアジェの理論における思考の二つの異なる形式についての問題の立てかたそのものが間違っていると考える。満足や欲求を現実への適応から切り離し、それを形而上学的原理の高位にまで高めたピアジェは、その論理的必然として、現実的思考といった思考の他の形態を,現実的欲求や興味,願望から完全に切り離されたものとして、つまり純粋思考として考えざるを得なくなった。

 第七節はピアジェ哲学の批判に向けられている。ピアジェにとってもっとも大きな危険とは、実験の結果を尚早に一般化し、先走った観念の支配下、ある論理体系の偏見の支配下におちいらせることであった。ピアジェは,過渡の体系的叙述、ましてや児童心理学の限界を越えるようなあらゆる一般化を、原則的に避けたのである。ピアジェの意図は、もっぱら事実の分析にとどまり、これら事実の哲学に深入りしないことにある。しかし、ピアジェは、論理学や哲学史,認識論が、予想以上に子どもの論理の発達と結びついた領域であることを認めなければならなかった。そこで、ピアジェはこれら隣接領域のさまざまな問題にふれざるを得なかった。もっともピアジェは自分の思想が,哲学という宿命的な境界に接近するたびに、つねに驚くほどに首尾一貫して、自分の思想の流れをさえぎっている。