第4章まとめ

1.類人猿における思考とことば
 思考とことばは,それぞれ発生的にまったく異なる根源をもつ。そのためにケーラーとヤーキスの類人猿研究の検討が行われる。
 まずケーラーの実験では、「人間に似た知能が、いくらかでも人間に似たことばの欠如するなかで存在し、知的操作が「ことば」から独立している」(p.110)ことが証明された。ここでの人間に似た知能とは、道具の製作と使用ができる知能であり、また情動的表現としての「ことば」が使える知能である。また、人間に似たことばの欠如とは、記号の機能、客観的ことばの欠如を意味する。ヤーキスは類人猿が高度の観念化をすると主張した数少ない人物であるが、ヴィゴツキーはその見解を分析的実証のないものとして否定している。以上より、類人猿において、思考とことばは異なる発生起源をもつと結論づけている。

2.子どもにおける思考とことばの発達
 子どもにおいても、知的反応の萌芽とことばは無関係である。しかし、人間には,思考とことばの発達路線が交錯し、一致する段階がある。つまり、子どもは「すべての物が名前をもっている」ことを発見する。ことばは知能的となり、思考が言語的になり始める転換期を迎えるのだ。ここで言語の象徴的機能を発見するのである。

3.内言の発生
ワトソンは、「声高のことば→ささやき→内言」という過程で内言が発生すると考えた。しかしささやきは過渡的ではなく、また声高のことばと著しく変化するものでもない。むしろ、ささやきと内言には大きな違いが見られるため,この仮定は明確に否定される。しかし、ワトソンの方法論にも正しい方向性は見出せる。それは,外言と内言を結び付ける中間の環を発見する点である。一方,ヴィゴツキーは「外言――「自己中心的」ことば――内言」という過程を支持する。「自己中心的」ことばの機能とは内的でありながらも、生理学的には外的であるため、そのことばは生理学的に内的なものとなる前に心理学的には内的なものとなる。では、内言が大人でどのようなはたらきをするのか。思考とことばの過程は同一視されるのではないのか。ヴィゴツキーはこれに反論し,部分としての「言語的思考」はあっても、思考だけの、また言語だけの独立した領域を認めることはできると主張する。

4.結論
ヴィゴツキーは、様々な先人の考えを引用し、検証したあとで、思考とことばの発生的根源と発達路線は一定まで別々であること、人間において思考とことばのふたつの発達路線は交叉する、という2点を確認している
内言の発達に関しては、「内言は、長い機能的・構造的変化の集積を通じて発達する。それは、ことばの社会的機能と自己中心的機能の分化と一緒に、子どもの外言から分岐して生まれる。そして最後に、子どもによって習得される言語構造は、子どもの志向の基本的構造となる。」(p. 144) と述べる。そして研究方法に関しては、発達のタイプそのものが生物学的なものから社会的・歴史的なものに変化するため、自然科学の方法論から社会心理学の中心的問題に転化すると考える。(AS)