François Chaubet (2008), « La place de la langue française aujourd’hui » Cahiers français n. 342, pp. 76-80.

 著者はトゥール大学准教授,パリ政治学院講師の歴史家で,『対外文化政策と言語外交,アリアンス・フランセーズの歴史』の著者である。本論文は,フランス社会におけるフランス語の地位を回顧し,現代社会におけるフランス語の課題を明らかにする。

 フランスの言語政策は1539年のヴィレル・コトゥレの勅令に遡るもので,言語は国家の統一に寄与してきたと考えられてきた。しかし,フランス語が国家を統一したことは,神話ではないにしても,喧伝されているほどの実効性はなかった。

 大革命時代には,フランス語による革命思想の普及が企図されたと伝えられてきたが,著者はこの定説に留保を求め,「人と市民の権利の宣言」や他の法も地域語でも公布される予定であったことを明かしている。1863年においても,1/4のフランス人はフランス語を話せなかったし,12の県では学校で地域語を使用していたという。(これについてはChanet Jean-François(1996), L'école républicaine et les petites patriesを参照のこと)

 そして,フランス国内のフランス語普及はなによりも学校を通じて進められたが,それと同時に冊子体で刊行された百科事典,辞典,大衆新聞などの役割も無視することはできない。第三共和政初期において,教育の普及に応じて,フランス語は社会上昇の道具となった。しかし,地域語は消滅したわけではなく,1945年のブルターニュのある町で就学年齢に達した子どもはみな,ブルトン語母語としていたという。フランス語によるフランス国内の言語同化政策は神話ではなかったにせよ,その実効性は完璧だったわけでもない。

 共和国の学校で教えられてフランス語は,規範に従った標準フランス語であり,このような言語の均質性は1870年から1950年の間の他国の言語状況と比べると,例外的なものであった。これが,アリアンスフランセーズを中心とする対外言語普及政策を間接的に支える要因であった。

 しかし,この30年というもの,言語の統一とフランス語の規範について変化が認められる。19世紀以来求められてきたフランス語による統一は,1951年のデクソンヌ法が四つの地域語による教育を承認したことを皮切りとして,公教育への地域語の進出は年々強まり,これはフランス国内の多言語主義の承認にいたる。フランス語総局がフランス語とフランスの諸言語総局に改組されたことはそのしるしといえよう。多言語主義の動きは,フランコフォニー運動において文化的多様性を認める動きとしても連動しつつある。

 フランス国内においてフランス語の統一を揺るがしつつある問題は,「郊外のフランス語」の問題である。これは,ラップやある種の文学において,排除されつつある人々の声を響かせる創造的なものともなっているが,その一方で,郊外では10%の青少年が学業を落伍し,知的・言語的能力を欠いているという現実を映し出すものであることを忘れてはならない。彼らの語彙はわずか400語程度にとどまり,文法もよく理解できないまま,整合的な言説を発することも難しい。言語表現を補うものは暴力となる。社会的に文化的に排除された郊外に暮らす若者は,フランス語表現の不安を抱え,それがさらに郊外からの脱出を疎外している。

 フランス国外において,フランス語の地位は脅かされているのだろうか。確かに,EUについては,1990年にEUで最もよく使用された言語であったのが,1999年にはその座を英語に引き渡しており,フランス語の退潮は否定できない。とはいえ,フランス政府の文化ネットワークは予算削減のなかにあっても,世界最大の文化ネットワークであることに変わりはない。しかし,「言語はそれが表現する文化によって生きる」(Claude Hagege)かぎり,現代世界を魅了するフランス語思想家・著述家があらわれないかぎり,フランス語の生命はあやうい。