Pierre Bourdieu (1992) « Deux impérialismes de l'universel », in Christine Fauré et Tom Bishop (sous la direction), L'Amérique des des Français, Paris : Editions F. Bourin, pp. 149-155.

 この小論は,フランスとアメリカという普遍主義の帝国をその特質と相違を論じ,真の普遍的文化とはなにかを解明するものである。

 ブルデューによれば,フランスの普遍主義の根源には,フランス革命があり,これはフランス共和国の根拠となっているのみならず,普遍的革命としてあらゆる革命のモデルになっている。このことから,フランスは普遍主義を体現しており,フランスの国民文化は普遍的であることが正当化され,これが文化帝国主義の根拠となると考える。

 フランス植民地主義は,個別文化として普遍性を体現するとの確信から,同化主義にもとづく併合を普遍主義へむけた解放と考えるようになった。すなわち普遍主義にもとづく帝国主義は,解放をもたらす帝国主義であると考えられるようになったのである。(ちなみに,植民地主義の正当化については,ここでブルデューは言及していないものの,フランス共産党の主張もあり,それによれば,フランス以外の諸国が実行した植民地支配よりもフランスの植民地支配は相対的に優れているために,他国の恣意に任せるよりも,フランスが行った方がよいとする見解もあった。)

 フランスが普遍主義を体現することから,フランス人は自らに固有の関心を普遍化することができると感じるようになり,文化面での普遍主義の独占にまでいたる。それはフランス語の改革について当てはまる。前衛的な作家たちまでもが,綴り字の合理化を含めた,フランス語改革に対して,それがいかなるものであろうとも,反対してきたのは,フランス語自体がリヴァロルの言説にあったように,普遍性を獲得しているためであり,変更は必要ないと考えたからである。

 この一方でもう一つの普遍主義である,アメリカの民主主義については,19世紀のフランス貴族トックヴィルが承認したことにその正統性の根拠がある。アメリカの民主主義が普遍的であるということは,他者による承認,それも外国人であり,また民主主義の対極に位置づけられる貴族が承認したことによって正当化された。

 しかし,現代世界においてアメリカの普遍主義は民主主義にとどまらず,文化的普遍主義に展開しており,ブルデューはその発現をノーベル賞に象徴される科学という文化資本に認めるのである。

 米仏の対立とは,上昇しつつある帝国主義と,衰退しつつある帝国主義のそれに他ならない。

 では,あらたな普遍的文化とは何か。ブルデューによれば,それはこれまでのように個別文化を押しつけることで生まれるものではなく,さまざまな文化的伝統が相互に承認しあうことにより,統合して生まれた文化であり,普遍主義を主張する個別文化の闘争から生まれるものではない。

 (言語普及について考えると,統合的言語普及政策が必要なのか。)