フランス語教育は「文化」をどのように語るか

フランス語教育は「文化」をどのように語るか

 フランス語教師は,なぜ文化を語るのだろうか,そしてどのように語るのだろうか。言語教育の実践に当たって文化を語ることは必須条件ではなく,文化を語らない言語教育も存在してきたし,またそのような教育は現在でも存続する。

 では,なぜ外国語教育が文化に関する言説を伴うのだろうか。フランス語の場合,それはとりわけフランス語教育の歴史と不可分の関係にある。フランスでは19世紀以降,「文明」civilisationの名称により一国の生活様式や社会制度に関する知識が語られており,「フランス文明」は植民地主義の文脈において非西洋世界の到達すべき目標として提示され,「文明化」とはフランス人が植民地人に対して行うべき使命として語られてきた。

 言語と文化の関係を整理すると,およそ次のような3種類に分類できるだろう。第一に目標言語を学ぶことなく,あくまでも母語により目標文化を学ぶこと。第二に目標言語を学びながらも,目標言語ではなく母語を通じてその目標文化を学ぶこと。第三に目標言語を学びながら,母語ではなく,目標言語により文化を学ぶことが挙げられる。

 この類型化を日本に即して考えると,第一のパターンの場合,日本語を通じて外国文化に接することとなり,日本人の見た外国文化,あるいは日本語によって置換され,理解された限りでの外国文化が対象となる。このように理解された文化は,その文化の中で生まれ育ったネイティブ話者が抱く文化とはかならずしも同一ではない。

 第二のパターンは,言語学習という変数を伴っていることから,目標言語によるコミュニケーションを行うに際しての社会文化能力の一部ともなる。とはいえ,その文化はあくまでも母語で語られたものである以上,母語や出身文化のバイアス,場合によっては先入観や偏見を逃れるものではない。

 第三のパターンは,目標言語によって目標文化を語ることであり,言語学習に引き寄せて考えるならば,目標言語文化の国で目標言語を学ぶケースがそれに当たる。

 『文化』を語るとは,この三つのパターンのいずれかに正統性があるのかを判断し,優劣を下すことではない。「われわれが社会的現実と見なしているものは,かなりの程度まで,この語のあらゆる意味におけるreprésentationであるか,さもなければreprésentationの産物です。」(『構造と実践』)とブルデューの語るように,文化とは優れた意味で『表象』である。

 当日の報告では,この表象としての『文化』をフランス語教育において語ることの意義をも考えたい。