国際研究集会2012.9「年少者への言語教育の可能性と展望:バイリンガリズムか, 複言語主義か」

 今回の国際研究集会は,「年少者への言語教育の可能性と展望:バイリンガリズムか,複言語主義か」をテーマとして取りあげる。これまでに京都大学が開催してきた国際研究集会など では,大学生や成人の学習者を対象として考察と討議を重ねてきたが,今回はじめて年少者を対象とする言語教育を取りあげる。

 年少者に対する言語教育は,世界各地のさまざまに異なる文脈の中で実施され,日本もその例外ではない。日本や中国,韓国といった東アジアでは,年少者に対する言語教育イコール英語教育と,極めて狭い意味に受け止められている。だが世界の多様な言語教育はわれわれの想像を超えるものである。本来,外国語教育とは,すべてが英語教育に集約されるべきものではない。

 日本では2011年より,小学校外国語活動が法制化され,小学校の教室にも日本語以外の言語が導入されることとなった。しかし歴史的に見るならば,このような取り組みは初めてのことではない。小学校英語教育は,19世紀後半の明治時代初期から都市部を中心に実践されていた。江利川(2008)は,現在の小学校英語教育の直面している課題のおおかたは100年前にすでに論じられていたと看破する。教員の資質は小学生に英語を教えるに十分であるのか,小学校と中学校での英語教育の連携は可能なのか,さらに書記体系の複雑な日本語学習とまったく異なる英語を外国語として学習することは,あまりにも困難であり,まずは国語力をつけることが重要ではないかなど,現在の小学校英語教育をめぐる課題の多くが実のところ,明治時代にはすでに議論されていたのである。この議論の結果は,1912年に英語教育の廃止としてあらわれるが,しかしその後,世論の後押しを受け,1919年に再び教科として登場する。1932年のピーク時には全国で1842校(9,9%)の高等小学校で英語教育が実践されたが,その後,戦間期に入ると低迷し,中断へと向かう。2011年から導入された小学校外国語活動はこれまでの遺産を批判的に継承しているのであろうか。

 とはいえ,21世紀の言語教育は新たな課題を抱えている。現在改めて,年少者への言語教育を19世紀とは異なる文脈から見直すにあたり,さまざまな課題が浮かび上がる。年少者とは誰か,年少者への言語教育の目的は何か,あるいはどの言語を取り扱うべきか,学校教育の外部に位置し,社会的地位の低いことの多い移民の言語は年少者の周囲に存在するのだが,それらを教育活動に統合する必要はないのか。さらに母語と異言語を切り離したバイリンガリズムを構想すべきなのか,あるいは複数言語の複合的で複層的な能力としての複言語能力の養成をめざすべきなのかなど,あらたな課題を無視することはできない。

 そこで,年少者外国語教育について過去からの問題提起を踏まつつ,このような新たな時代の課題を議論の俎上に載せ,日本における年少者言語教育の今度の方向性を検討していきたい。
 そこで,まず年少者とは誰を指すのかを考えたい。これは,中等教育段階以前の生徒全般を指すのだろうか。あるいは小学校入学時点,すなわち6歳程度の子どもを指すのか。また就学以前の教育課程,すなわち幼児教育段階の子どもを指すのか。さらには3歳程度の幼稚園入学以前の子どもを指すのだろうか。異言語教育の開始時期が早期化される傾向は世界的に確認されるが,何歳から異言語に接し,またそれを学ぶことが望ましいのか,専門家の間に必ずしも共通の理解は存在せず,しばしば世論の動向が教育政策を左右している。たとえば,ギリシアでは幼児段階から多言語教育が実践される一方で,日本での外国語活動は10歳からとなっている。

 年少者への言語教育の目的を見ると,スキルの養成をめざす教育はなるべく早期から実施することが効果的だとの表象に基づいて,スキル育成のための教育を行なおうとしているのだろうか。あるいは『小学校外国語活動指導要領解説』(2008)なども示唆するように,これは必ずしもスキルを目的とする言語教育ではなく,「外国語に触れたり,外国の生活や文化などに慣れ親しむ」国際理解教育を想定するものだろうか。

 対象となる言語の種類についても,これも必ずしも自明ではない。国際語と見なされている英語が年少者への言語教育においても取りあげられるケースが多い。グローバール化の加速する中で,移動する子どもは増える傾向にあり,それには言語の移動も伴う。そのため自国内に存在する異言語あるいは第2言語,さらにはその教室やその周囲に存在する移民の言語が何らかの形で教育活動に統合されることもある。これについてはギリシアや日本での多言語活動の取り組みが問題の所在を明らかにしてくれるだろう。

 母語と対象言語の関係も見逃すことはできない。2つ以上の言語それぞれを切り離し,個人の内部にそれぞれ別個の言語能力を想定するバイリンガリズムを構想するだろうか。この点で,カナダの事例は成功例と見なされることが多い。しかし,これは,バイリンガリズムを国是としながらも,ほぼモノリンガルの州によって構成されているという特性を忘れてはならず,カナダのバイリンガル教育は限られて事例であることを本日の報告は明らかにする。

 あるいはバイリンガリズムから出発し,それをさらに拡張し,より現実のコミュニケーションの実態に近づいた複言語能力へと導く教育をめざすのか。実際のコミュニケーション場面には,複数の言語が複層的に共存することも多い。

 さらに異言語との接触を狭い意味での言語運用能力のみにとどめるのか。あるいは複数の言語文化を通じた異文化間能力の養成へと向けるのか。このような課題については,社会言語学的意味において多言語社会の縮図であるイタリアのヴァル・ダオスタ自治州の事例が参考になるだろう。

 最後に,この研究集会の使用言語について言及したい。本日は日本語とフランス語を使用言語とする。日本の事実上の公用語である日本語を使用することは開催地が日本国内であることからも当然であるが,これと同時に,日本語が学術言語として機能することを改めて確認することも重要である。一方のフランス語について,これはこの国際研究集会が科研費の支援に加えて,フランス大使館ならびにケベック州政府事務所の支援を仰ぐことから,フランス語を使用するものではない。今回の国際研究集会の報告者にはフランス国籍を有する者はいないが,フランス語を共有する研究者が複数参加している。フランス語は英語と並んで国際社会に広く共有されている言語の一つであり,言語教育学の領域において,英語のみが覇権言語の資格により学術の媒介として認められているわけではない。日本語が学術言語として正当な価値を主張できることと同じく,フランス語もそれ以上に学術言語の資格を享受している。
 本日の国際研究集会が多様性を承認する言語教育への歩みとなると共に,研究集会それ自体が言語的多様性を証することを願って,開会の挨拶としたい。

参考文献
江利川春雄(2008)『日本人は英語をどう学んできたか-英語教育の社会文化史』研究社