『文化を越えて』第3、4章

『文化を越えて』第3、4章

ホールは,人間のコミュニケーション構造の全体を文化と定義する。人間のコミュニケーションを理解するには、言葉、行為、姿勢、身振りなどの意味を知らなければならない。このような文化は無意識的な存在である。文化は生得のものではなく、周囲の人たちのコミュニケーションのパターンを学んで獲得したものである。しかも、文化がいったん習得されてしまうと、習慣的に行われているために、生まれつきのものであるかのように感じられるのである。

異なる文化と接触することは自文化に気づく機会である。ホールは脳の情報処理の過程で、無意識的に存在する文化がどのように気づかれるかを説明する。人間は,物事が人間の制御体系に設置されたプログラムどおりに進行しなくなって始めて、制御体系の存在に気づくのである。

 ホールはアメリカ人の時間に対する観念の例をあげ、それが活動を整理するレベルでのパターンであるため、ボタンを押すと自動的に反応する機械のような存在と考えた。しかし、このような機械は人間のつくりあげた「延長物」として限界がある。つまり、この機械は人間のあらゆる機能を果たすことができず、うまく「反応」をするために、「入力」を一定に保つことが必要である。人間は入力を制御するために、自己の入力を制御することに邪魔するものを破壊し、新しい状況においても従来のパターンで制御する方法を採用しており、高い代償を払っている。

そして自分のパターンと異なるものが存在する可能性を無視する方法も使われる。ホールは,人間が自文化の存在に気づかず、相手がこちらの文化をわきまえているはずだと思い込んでいることを指摘する。そのため、自分の知っている世界と異なった状況においては、プログラムの再調整が必要である。

文化のコンテクストの程度について、ホールは「時間をどの課程で費やすか」ということから、コンテクストの度合いが判明できると主張する。つまり高コンテクスト文化の場合、最初のプログラミングには時間がかかるが、後には暗黙の了解ができていることから、効率よく事を運ぶことができる。逆に、低コンテクスト文化の場合はプログラミングを行わないから、情報を明示的に伝達しないと、コミュニケーションは不完全なものになる。

言語と文化の関係について、ホールは言語が文化の一体系であり、言語なくしてコミュニケーションはありえないと指摘する。そして言語は「思考や意味を一人の人間の脳から別の人間の脳へ転移する体系ではなく、情報を整理する体系であり、他の有機体から思考や反応を解き放つ体系」であると,ホールは定義する。

ホールは日本で部屋を替えられた体験の例をあげて、アメリカにおける「空間」の重視を説明する。そして、部屋を移されたことから,日本人の行動パターンを判断する。日本人には、人との深いかかわりあいを大切にする高コンテクストの面と、形式で事務的、かつ身分にこだわる低コンテクストの面という二つの側面があるというのだ。(HJ)